不満足を強いられる時代


「満足してはいけない。」
「今のままで十分だと考えてはいけない。」
これは、新製品や新商品を売り続けるために、買い続けるために、
いつもどこかで囁やかれ、誘うように脅すように繰り返される
資本主義経済の教義。現代社会の憲法。。。

私たちは飢え続けていなくてはいけないのだ。
飢えていることは立派なことだと思わなくてはいけない。
今の程度に満足してはいけないと言われて、
もっと上へ、もっとがんばれと言われる。

いいえ、これでいいんです。これくらいが自分には
合っているんです。変わらなくていいんです。
上に上がらなくていいんです。今で満足なんです。
そんな事を言えるのは、勉強の時くらい。
なぜなら勉強だとこう反抗することが格好よくて許される気がする。。
でも、スポーツやアートや音楽や仕事では、勉強の時ほど思い切って
教義の束縛をのがれることができない。

学校に反抗する若者も、なにやら新しいものを求めてさ迷う様は、
結局飢えを強要する教師となんら違いはしない。
勉強の度合に不満を持つのと、何かおもしろいことはないかと
うろつくのと、実は同じことの裏表を見るようだ。

スポーツは、人間の中にある凶暴な闘争本能を昇華してくれるというが
現代ではそれに加えて、この資本主義精神の確固たる肯定という姿も
担っている。より強く、より早く、より長く、今を満足する事なく
今の先を目指す。競争こそが強くなるために必要であると。

自由競争か、、アダムスミス以来の自由主義経済の根本思想だ。

いつもはいやだ、いやだと思っているのに、スポーツの世界では
正しい事なんだよって慰められて、
「彼らがあんなにがんばっているんだから、私もがんばろう!」
なんて考えるとしたら、これは国家の陰謀にも近いよ(笑)。

チームを気楽に応援して、弱くてもだらしなくても満足できるように
なりたいのに、競争を好む気持ちが、すぐにいらいらと湧き上がり
勝ってくれと思ってしまう。
勝つために日々精進しろって思ってしまう。
もっと上を目指せって思ってしまう。
競争第一の世界に疲れているのに、競争第一の世界に熱狂する。
自分は晴耕雨読の生活をおくりたいと願っているのに、結局は
現代の教義にがんじがらめなことに気づく。

スポーツ選手に熱中するのは、彼らに競争は悪い事じゃないんだと
言ってもらいたいからなのかもしれない。
彼らは私の代わりに飢餓感を解消してくれはしない。
彼らもまたこの飢餓感のまっただ中にいる。でも、それを
面とむかって肯定し、上を目指す事を一番大事だと言って
はばからないから、私がじくじくと感じている罪悪感をいっとき
忘れさせてくれるのかもしれない。
疲れを癒してくれるのではなく、疲れなんて感じるなよと言われて
いるのかもしれない。

とすると、スポーツと自由経済は思ってもみないほど深い所で
つながっている。だから、Wカップやオリンピックが経済活動と結びついて
しまうのは当たり前のことなのかもしれない。

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