いつも決まった道しか通らないことを
京都では「いたち」のようだと言うそうだ・・・
2年前の5月か6月だったのではないかと思う。
木村拓哉は明星で連載しているエッセイ
「ざまをみろ」の中で、
「来年の自分がすぐに想像できない」「みんな俺に何をしてほしい」
という発言をした。
多くの人はこれを読み、誰もが「アイドルという枠におさまりきらない」
木村拓哉の苦悩を感じた。
関係ネットの掲示板はどれも騒然として、
みなが毎日のように彼への励ましや共感、
胸の痛みを書き綴り、流行病(はやりやまい)のようだった。
「あせらず自分の道を進んでください」
「まだまだこれから。若いんだから」
「私たちは信じてるよ」
「こうした悩みがあなたをさらに大きくする」
ご多分に漏れず、私もその明星を買い、記事に胸をうたれ
木村拓哉にあてて生まれてはじめてファンレターなるものを書いた。
これまた生まれてはじめてアイドルのコンサートに出かけた。
「苦しんでいる」相手に対して何か力になることが出来るという幻想。
遠かった存在が近づく瞬間。
相手の悩んでいることが理解出来る気がし、
自分のかけた言葉が力になる気がし、
極め付けは「誰もが見捨てたとしても私が最後の一人になる」という
幸せな勘違いだ。
不思議なのは、こういう事態になったからファンになったのではなく、
その一歩前で、突然にファンになることだ。
あれっ、はまっちゃった、と思った時は、まだ平穏な日々があるのだが、
そのわずか後に、事態は突如沸騰する。
その年の暮れ、Xジャパンが解散した。
おおみそかの武道館のコンサートは小泉元郵政相に限らず
突然のファンを生んだ。
もっと前に知っていたら。。。
あれからXのアルバムを買った人間はけっこういただろう。
個人の活動を再開したTOSHIもまだ平穏な日々をおくっていた。
私はTOSHIのアルバムを買い、TOSHIファンの掲示板をのぞき
TOSHIのコンサートに出かけた。
「あせらず自分の道を進んでください」
「まだまだこれから。若いんだから」
「私たちは信じてるよ」
「こうした悩みがあなたをさらに大きくする」
そして、不明瞭な団体との関係と個人攻撃で
カタストロフィは起きてしまった。
「戻ってきて。」
「あなたのことは私(たち)の方がずっとわかっている」
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経験を学習することは難しい。ましてや
悲劇や興奮を予感してファンになったわけではない。
そのはずなのだが、これはどうしたことだろう。
イナについて雑誌やネットは
日本のなかにはおさまり切らないと感じるスケールの大きさと
力強い未来を語っていた。
しかし、はじめて見たイナは故障あがりで、痛々しく、その後も
なかなか満足のゆくプレーに戻らない。
もっと前から知っていたら。。。
ベストのプレーを見てみたいと彼の姿を追う私。
順調に回復をとげていると信じている平穏な日々。
五輪代表からはずれた日、関係ネットのどれもが、動揺、悲しみ、
落胆につつまれ、励ますための言葉を探し、妙に熱くなった。
「あせらず自分の道を進んでください」
「まだまだこれから。若いんだから」
「私たちは信じてるよ」
「こうした悩みがあなたをさらに大きくする」
片足をつっこんだ時点では、まだ何も起こっていないのに、
時をおかず順風満帆のように見えた人が立ち止まってしまう。
これは偶然なのだろうか。
苦悩する予感があるのか?苦悩しそうな人に惹きつけられるのか?
「力になれる」という幻想と幸せな勘違いが道の先にあることを
なぜか感じるのだろうか?
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