バーチャルなドラマの共有
ある日アイドルにはまる。 なぜか、どうしてか、わからないが、一瞬の爆発が神経細胞で起きてしまい、 その1秒後にはその人のことを考えるだけでどきどきしてしまうようになる。 そしてこの思いは共鳴するかのように同じ熱を持つ人が多ければ 多いほど強くなってしまう。 合意をとりあえず支えているのは「熱気」ではなく、 「信じられないはずの熱気を信じたい」というとりあえずの思いである。 しらけた日常のなかに少しでも「ドラマ」を持ち込んで生き抜きたいと 感じているいまの日本人の、切ない生活感覚の見事な暗喩となっているのだ。 山田太一著の「見なれた町に風が吹く」に寄せられた書評の一節が、 するどく今の気持ちに問い掛けてくる。 こんなにのめりこんではまっているように錯覚しているものは、 結局この書評者の言う「とりあえずの思い」ではないのかと。 木村拓哉という時代の記号にドラマを期待している切ない生活感覚ではないのかと。 そうかもしれない。だからこそ、ネットを通じて無数の女性が、 そのほとんどが独身であれ、夫帯者であれ、日々の生活をもっている女性が、 この熱気は本物だと仮想空間で信じあい、木村拓哉に思いを寄せる。 一生自分を認識してもらうことはない、同じ場所で同じ空気を吸うことはない、 と、わかっていながらも、バーチャルな空間で熱い思いを語り、共有し、 双方向性があたかもあるかのようにドラマに身を委ねているのだ。 自らドラマ化しているという指摘に思わず納得する。なぜなら ネットに参加することによって、ますます気持ちが強まるからだ。 話せば話すほど、大きなドラマを共有して、互いに嘆いたり励ましたり、 集団幻想が強固になってゆく。 何も起こらない日常生活をおくりながらネットのドラマ空間では 熱気を帯びて自分は生きていると信じたいのだ。