くらもちふさこと木村拓哉
昭和30年代の元乙女としては、あの頃の自分と別マのくらもちさんの漫画は 切っても切れない間柄で、線っていったらもうあの顔が浮かんできて 胸が切なくなるほどだし、ふとした瞬間にくらげの入った袋を思い出したり たった一小節のらららなんて言葉がふいに出てきたりする。 確かに萩尾望都や大島弓子といった批評家好みの素材ではないし、 美内すずえのような大河ドラマ派でもないし、 いかにも集英社らしい通俗性を備えていた。が、同じように一世を風靡した 作家陣のなかで、彼女はすこしだけおしゃれで、すこしだけ自然で すこしだけ自分に近い気がした。 私は特に中山手 線(おしゃべり階段)が気に入っていた。 唐突だが私は木村拓哉ファンでもある。(注1) なぜか突然好きになってしまった。 ジャニーズ系はもとよりアイドルや映画スターといったものに 少女時代から今まで一度も気をそそられたことがなかったのに、 なぜか突然、、である。 とある木村ファンのHPにおじゃまをしているうちに、気が付いた。 そう、彼は線に似ている。気づいたとたん、線だけというよりも、 達ちゃんや暁や佐藤ちゃんや迫丸先輩の顔が浮かびあがり、 まるでジグゾーパズルのピースのように心の中のあちこちではまりだした。 木村拓哉は心の中で重なり合っていたあるイメージの総称だったのかもしれない。 そんな気がした。 なにもいつも本棚にくらもち作品が並んでいたわけではなかった。 それどころかリアルタイムで読んでいたのはもう20年以上も前になっている。 別マは必ず読んでいたが、作品のすべてを所有しているわけではなかった。 当時のお小遣いではコミックスを全部買うのは容易でなかったと思う。 最初に買ったコミックスは「おしゃべり階段」だ。 ある日どうしても欲しくなったのだ。 中学生の、高校生の、浪人生の線と加南に無性に会いたくなった。 手が届かないと決め込んでいる男子に片思いするせつない気持ち 伝わっているのか伝わっていないのか、心揺れるもどかしい気持ち くらもち作品に共通する思いに会いたくて、 時に彼らにむしょうに会いたくなって、 今でも、物置のみかん箱の中を探し出したり、 古本屋を歩き回ったりするのである。 Always Coming Back、、いつしか戻ってしまうところ さて、木村拓哉であるが、実は私は彼をどう呼んだらよいのか いつも悩んでいる。 木村君、木村、拓哉君、拓哉、キムタク、TK、どれも口にだすのも 書くのも面映ゆい。 線ならぜったい線だ。線君なんてありえない。 季晋ちゃんはきしんちゃんであって、としくに君ではない。 でも木村拓哉は私にとって絶対これだという存在ではなくて、 ある種のシンボルなのだと思う。であるからして、時々キムタクという言葉を そう悪くないのかもしれないと考える事がある。 蔑称でもなく、お手軽言葉でもなくて、実は多くの人が無意識に彼をどう 呼んでいいのか戸惑っている現れなのではないか、 木村君というほど軽く言えないし拓哉と呼び捨てするほど 馴れ馴れしくもできないような不思議な気分に、 キムタクというシンボル名をつけたのかもしれない。 私にとってくらもち作品に象徴される近くて遠いものの シンボルでもあるのかもしれない。 私はけっこう冷めたファンなので彼が出演しているといっても 自分好みの作品ではないと見ないし、 逆にこんな姿なら見たくないと思う勝手な奴である。 まあシビアにいえばどんなファンであろうと すべて自分勝手であるというより他はないが。 見た作品はビデオで「若者のすべて」「ロングバケーション」 TVで「ギフト」この3つだけである。 これらの作品は設定は似ているものがあるといえ、 特にくらもち作品を喚起するものではない。 まあ「季晋ちゃん」を瀬名君に重ねてもよいが、それほどキャラクターが 似ているわけでもない。 スマスマで見せるサービス振りもそれほど似ていない。 だいいちくらもち作品の彼らはかわい子ぶらないし、お子ちゃまモードを 演出しないし、アイドル的というよりアウトロー的である。 それでは一体どこが似てるんだ!となるのだが、 それが自分勝手なファンの心のつぼを衝いていて、 時折見せる不満そうな表情、やや無愛想な表情に くらもち作品の彼ら、線や季晋や達やちいちゃんなどの姿を 重ねてしまうのである。 やれやれファンというものはげに都合良いものである。 注1・・HPを作っている今ではやや過去形になってしまっている。 彼も年相応になってゆき、くらもち作品の中の彼等より 老けてしまったのが、私のようなイメージを重ねる者にとっては しんどいのかもしれない。