監督の采配についての非難をきくたびに
不思議に思う事がある。
たとえばこれが将棋や囲碁であったなら
打った手が悪かった、致命的な悪手を指したと
いうものがあるかもしれない。
しかしそれですら、すべてが読めるわけではない。
一手が先々どう影響するか、思わぬ成り行きに
なる時もある。

そして動く駒が木や石であるものでさえ、
予想を100%つけることができないのに、
その駒が人間であるサッカーゲームにおいて
あの交代は失敗、だめ、という人がいるのが不思議である。

采配を結果で評価するのは簡単だ。サッカー素人でもできる。
勝てば正解。負ければ失敗。
そんなものをわざわざ識者から聞きたいのではない。

采配の意図の妙味を知りたいのだ。

野球に例えるのがやりやすいので野球の話にするが、
9回表の攻撃を同点で迎えた場面で、2塁走者がいる。
打順がピッチャーの順番になった。
好投を続けているピッチャーを代えるか、代えないか。
これは代えた方が正解なのか、代えない方が正解なのか、
誰にも言うことはできないはずだ。
結果的に、代打者がヒットを打つかもしれないし、
あえなく凡打に終り、その裏に交代した2番手ピッチャーが
打たれて負けるかもしれない。

代打者に打率10割の人間がいない限り、この交代は
3回に一回程度しか上手くいかない。
しかし上に上げた例でピッチャーに代打をおくったとしても
非難される話ではないはずだ。

ところが話がサッカーになるとなぜか多くの者が結果ありき、となる。
交代した選手が思った活躍が出来なかった場合でも、
その交代の意味などを考え自分なりの考えを聞かせて欲しいと
思うのだが、おかしな交代だった、なんて意見が多いととてもがっかりする。
足りないのは監督のアイディアではなくて、あなたたちの頭の中では?
と言いたくもなる。
以前、スポーツジャーナリストについて思った感想と同じであるが、
監督の采配について話すということは
自分のサッカーイマジネーションを試されているということなのではないだろうか。