オメラスから歩み去る人々



SFの世界では、現実にはありもしない設定をすることで問題の本質を浮きだたせる
ことができます。

例えば単一の性しか存在しない惑星を設定する事で、社会における性差の問題を
浮き彫りにし、無意識に行っている差別行動や意識などに気づかされたり、
有性生殖と愛情の関係を考えさせられたりします。

ルグインは、きわめてテーマの明確なSF作家で、彼女の書きたいことは
大変はっきりしてます。しかも彼女のすばらしいところは、明晰な頭脳を
持ちながら一方で詩人の心をもっているところです。
彼女の紡ぐ言葉は美しくリズムをもち、創造する世界も独特の空気が漂います。

「オメラスから歩み去る人々」
この短編を読んだのはだいぶ前のことなのに、読んで以来ずっと胸の奥に
刺さっています。『風の12方位』という短編集に収められたわずか4ページの話です。

世界には幸せと不幸せのバランスが存在して、
誰もが全員満ち足りて幸せということはない…

ほんの少し前に日本にも女工哀史や野麦峠の世界がありました。
貧しさのために両親が子供を売るのは農村では当たり前の光景でした。
一日中繭を煮る工場の吐きそうなにおいの中で、娘たちは黙々と生糸を紡いでいました。
絹づれの音をたてながら工場を訪れた上流家庭の娘は、
こんないやなにおいの所に居たくないと、そうそうに退散したものでした。

そんな世界が日本になくなったとしても、それは中国や東南アジアや
西アジア、中南米、その他の貧しい国に移っているだけでしょう。
朝3時に起こされトラックに積まれ、香水の原料となる花を摘むのは子供たちです。
朝日が昇り花の香が弱まる前に、ひたすら小さな手でつぼみを摘むのです。

安く均質の商品を手にすることができるのは、低賃金で働く労働者がいるからで、
私たちはオメラスに住んでいる人々よりもそのことに鈍感です。

オメラス、この星の住民は誰もが幸せで健康、喜びにあふれている。。
ただ一人を除いて。
すべての人が幸せでいられるために、ただ一人、汚れた水をのみ、不潔な汚辱のなかで
いつも飢え、無知のままに生きる事を定められた少女がいます。
オメラスの住民は土蔵の中、自分の排泄物の上に裸でうずくまる少女を誰もが一回は
見に行きます。誰もこの少女に語り掛けず、手を差し伸べません。
なぜならこの娘の存在が自分達の幸せを約束しているからです。。。

ルグインは、この短編の最期を希望をもたせる終わり方にしています。
表題のとおり、何人かの子供、大人が黙って、オメラスの街の外へ去るのです。
幸せや健康や喜びが消えてしまうかもしれないけれど、それを承知で立ち去る人々。

しかし、私にはこの極端に描いた幸福と不幸の関係がいつも何かの折に思い出されて
しかたがありません。オメラスから歩み去ることなど出来ないのではないか。
そう感じてしまうのです。

そして、ルグインの意図とは関係なく、この幸福と不幸の関係を
自分の内に見てしまいます。
自分は幸せではない、心を苦しめる思い、なんでこんな人生になったのだろうか、
この苦しみは、でも、私の幸せの代償なのかもしれない。10のうち9の幸せ、
9の幸せを塗りつぶせるほどの1の不幸。
9の幸せを失うことになってもよいから歩み去るべきなのだろうか、、、
困難や苦しみが道の先にあろうとも今の状況を変えるためには幸せを
手放す勇気を奮い起こすべきなのだろうか、、
そういつもいつも考えてしまう自分がいるのです。

ささやかに適度に幸せという人がいるとしたら、とてもうらやましく
思うのです。


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