2004年その3


オール・アバウト・マイ・マザー Todo sobre mi madre (1999 スペイン・フランス)

アルモドバル監督作品。
この映画には男は出てこない。
正確に言うと、意味のある役柄を持った男は出てこないというべきか。
そこそこ意味を持った男といえば、痴呆で妻に対して子供のようになっている老いた男や、
フェラのことしか考えないような無神経な男とかだ。

息子が生まれているのに、男が最後まで介在しない。精子提供者としてだけの男性だと
いう点を強調したかのように、息子の父親は性転換(性同一性障害?)で今は
女になっている。

どこからどこまでも女を描いた作品だ。
だが、それならなぜ題名がmadre 母についてのすべてなんだろう。
これが、そうなんだ、ほんま、そうなんだよ、男と女は分かりえないけど、
息子と母親は違うんだよって、もう何て言ったらいいか、皮膚感覚で納得いく、
そういうものがあって、これにのっけからやられてしまった。

映画の本筋とは関係ないところなのかもしれないが、
17の息子に、「将来は肉体労働してお母さんを養ってちょーだいよ」と
軽口をたたくシーンがある。
息子は「ペニスで稼ぐよ」とふざけた事を言い、「まっ!」と鼻白む母親に
「お母さんは僕のために体を売れる?」と訊く。
真剣な一瞬があり、「あなたのためならなんだってやるわ」と母親は答える。

息子のためなら体を売ることだって愛情だ!って母親は言いきれるし、
息子は汚濁すべてを受け入れて愛を返してくれる気がする。
こういうとんでもない強靭さが息子への愛にはある。
これが、もし夫のために体を売るのだとしたら、、ぐっちゃぐちゃの
愛憎が目に浮かぶよ(爆)。

で、「母についてのすべて」。

母一人子一人の暮らし、17の誕生日に息子は事故で他界する。
母(セシリア・ロス)は、息子を宿した地に戻る旅をする。
色々な女性と絡まりあい、不思議な縁で、息子の生まれ変わりのような
赤ん坊を育てる事になる。。

潮の干満のように死があり誕生がある。
汚濁を受け入れた(胎内でエイズ感染)、象徴のような赤ん坊(男の子)を
育てるセシリア・ロスは、再び息子を愛する母なのだ。
(セシリア・ロスは、ほれぼれするわね〜)

この映画、色彩が美しくて、見てるだけで心地よい。
赤と緑と黄色の世界。
ブロンドと黒髪と赤毛。
(2004.10.28)

 
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シカゴ Chicago(2002年アメリカ)

好きだわ。
キャサリン・セタ・ジョーンズの迫力に、レニー・ゼルヴィガーが負けそうだったけれど
負けそうなんで、剥き出しでしがみついている、ってのも、またレニーの
持ち味だからぴったりだわ。あざとさが似合う女優よね。

セタジョーンズ、踊りも歌も上手いので、ほんとビックリしました・・
もうさ、彼女、映画よりもミュージカルの方がいいんじゃない?
鳳蘭さんを彷彿するんだけど(爆)、全部がくっきりはっきりだから、映画より
舞台のほうが映えるんじゃないかなぁ。。。

その逆がリチャード・ギア(笑)。
全部が小ぶりだから、ステージだとしょぼいわ。ごめんねぇ〜。
でも、小狡いちんぴら味をもった調子いいリッチマンにはぴったりだったわ。
一歩間違えるとねずみ男だと思ってしまったわたし・・(自爆!)

アメリカのショービジネスの力っていうか、いずれも劣らぬ猛者ぞろい、ってのを
痛感したわ。あんな美人でこれほど歌って踊れる、なんて、おとろちいざます。
ムーランルージュとともに、参りました〜ってとこだわ。

#ブロードウェイで見たかったなぁ〜・・
(2004.10.30)

 
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プロデューサーズ The Producers (1968年アメリカ)

絶対4回はくりかえすしつこいギャグ、年寄りやオカマやバーコードヘアなど
見た目と下ネタのチープな笑い、とことん吉本系なんだよね。

わたしは吉本新喜劇が全然だめなの。大学で初めて関西にきて、
この手のお約束の笑いの世界はカルチャーショックだったの。

だからメル・ブルックス監督のはギリギリなんだけど、これは笑えた。
もしかして疲れてるのか?(爆)夜中にひとりでゲラゲラと笑ってしまった。

ギョロ目で太っててバーコードヘア予備軍のマックスが、体をはったギャグ。
もてもて中年ツバメも意外とはまる。うーむ、男はやっぱりマメが一番ね(笑)。
赤ちゃんの時から持っている青いタオルを今でも手放せないレオは
くどいぞくどいぞくどいぞギャクと思いながらも、繊細な表情がツボだわん。
とんでもなくセクシーで、オツムからっぽのウラは、最後まで謎だ(笑)。
これほどオバカな役を来年ニコールキッドマンがやるなんて、信じられないわ・・

当たり前だけど、出てくるのはおかしな連中ばかり。
演出家の秘書なんて、顔をみてるだけで笑えてくる。
受けを狙っているのがミエミエなのに、ヒットラー役のオーディションは
大笑いしてしまって、逆まんじのダンスはもうこれをやるっきゃないでしょう。
音楽だけはやたらと美しくて、登場人物たちとミスマッチ(笑)。

悩みポイントは、この映画って、ユダヤ人のメル・ブルックスがナチスを
とことんバカにしたくて作ったのか、ヒットラーをおちょくる話なら
駄作でも何でも受けるユダヤ人及びアメリカ人を自虐的に笑っているのか、
どっちなんだろ。微妙〜・・

なんにせよ、ミュージカル版「プロデューサーズ」がもっと楽しみになったわ。
(2004.11.02)

 
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ライブ・フレッシュ Carne tremula (1997年スペイン・フランス)

アルモドバル監督は「出産」と「死」がすごく好きだ。
必ず誰かが死に、必ず赤ん坊が生まれる。
これも、のっけから臨月のペネロペ・クロスのド迫力の叫び声で始まる。

で20年後の話。
妻クララの浮気を疑っている酒びたりの警官サンチョと、その親友の警官ダビド。
ドラッグ売人を待っている領事の娘エレナと、その娘に一目ぼれした若者ヴィクトル。
(ヴィクトルが20年前の出産シーンの男の子だ)
この5人の、うんざりするほど、ねじれて、やがて変容する関係の物語。

メインは、ヴィクトルの下半身遍歴なんだ。まじめに見てはバカを見る(うそ)。

まずはエレナと初体験。挿入はうまくできなかったが童貞を失う。
(この頃、ダビドはクララと浮気をしている)
腰に弾を受け下半身不随になったダビドはエレナと結婚。
彼は車椅子バスケに打ち込み汗を流すがどうやら不能になってしまったようだ。
(入浴シーンでのク○ニや迫力ある猛練習も意味深 哀れなり)
その事件で受刑したヴィクトルは7年後出所し、今度はクララと出会い、
懇切丁寧な手ほどきを受け、今や性豪の域へ(笑)。
ヴィクトルとエレナ。かつての失敗もなんのその。おとろちい殺し文句に、
とうとう寝ずの一夜を。

ものすごく生々しい欲望や嫉妬や憎しみや愛が、ひたひたと。
エレナはいつも赤い服をきていて、それは、あれよ。牛の目の前でヒラヒラと
赤い布を振ってるみたいなものよ。
ハビエル・バルデムは、なんであんただけそんなに迫力あるの、っていうほど
存在感があって、でも、出来なくて、、い、い、息苦しいぞ・・

ところで、ぐっちゃぐちゃにしたわりに、えっ?! 最後はコレ??
と思うほど、あっさりと拍子抜けのラストで、う〜ん。。。
車じゃないっ!!バスを使えーーー!! と、この映画を見た人はみんな、叫んだだろう(笑)。

女の性に翻弄されて狂う男の話って感じなのかなぁ・・・
原作がルース・レンデルの「引き攣る肉」。。えっ?こんな話だったっけ??(笑)
(2004.11.03)

 
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ピアニスト La Pianiste (2001年フランス・オーストリア)

苦痛だった。
ミヒャエル・ハネケ監督は、観客の忍耐力をためしたいだけ、なんじゃないだろうか。

ネットを検索すればこの映画の粗筋を書いてるページが山ほど見つかるから
繰り返しになるが、
ひたすらピアニストを目指してきた母娘がいる。
ドラマやマンガのピアノやバレエものによくある母子依存関係だ
父親は不在である。精神病で入院しているということになっていて、途中で死亡。
結局、娘は真のピアニストにはなれず、ウィーン国立音楽院?の教師となっている。

ひっつめ髪、モノトーンの服、ヴァージンの中年女性だ。
にこりともせず、つねにあごをあげて、人を寄せ付けまいとしている、不自然な、
ガラスを爪でひっかく音が聞こえてくるような、美人ではあるが既に衰え始めている女だ。
冒頭から、娘の女っぽい服を切り裂く母親と、その母親から離れられないですがりつく
光景を見せられ、胸糞悪い予感にわたしはおびえてしまう。

父親不在の母子密着、精神的虐待児の彼女は、性に異常に強い関心があるが、
一方で、性を極度に恐がっている。
過剰なほど檻からの解放を望む自分と、檻のなかの子供のままの自分がいる。

個室ビデオの部屋に入り、男性のナニを拭き取った紙に顔を埋め、他人の性行為を
覗き見て思わず放尿する一方で、自分の性器をカミソリで傷つけ、
Hな会話をした生徒を憎み、女性らしさを見せ自分よりも豊かな表現力を
身に着けた生徒に嫉妬し、卑怯に残酷に傷つける。

もう、見始めてすぐに、この監督の「これでもか、これでもか」という描き方に
勘弁して、、と、胸がむかむか吐きそうになってきた。

しかし、これは序の口だった。
ここに、工学を勉強し、アイスホッケークラブに入っている、つまり理系で
体育会系という異種分野の、良家出身で美形の若者が、ピアノの天分もあるのだが、
彼女の前に現れ、求愛しだす。

美形のオールマイティ君も、どこかオカシイ。一方的だ。
一体、なぜ、どうして、彼女のことにそれほど執着し、愛してる!と叫ぶのだろう。
は、吐きそうだ。。

彼女にとって「愛」は「支配」関係である。
支配するか、支配されるか、しかないのだ。
男根崇拝の彼女は、相手に動く事を禁じて一方的に狂ったようにフェラをするが、
相手からくちづけは絶対にされたくない。

オールマイティ君がもっと優しい行為をしたいと思っても、彼女の望みは、
殴られ、縛り上げられて、屈辱的な行為をされて、痛めつけられたい、なのだ。
この異常さは滑稽で哀れであるが、観客の同情をこれっぽっちも必要としない。
彼女はいつも、映画からも突き放されている。

彼女のおぞましさを嫌悪したオールマイティ君が離れてゆくと、狂ったように追いかける。
「愛してる!」と叫ぶ彼女。だが、
実際、彼女が愛だと思っているものは、抑圧されたヴァージン中年女性の妄想の中のみ
存在するもので、本当に体を合わせようとすると、途中で嘔吐してしまう。
ここまでなら、まだいい。
だが、「見ないで」と懇願し、口をゆすいだ彼女に、オールマイティ君は
「口が臭いよ」と言って突き放す。
あぁ、この監督の底意地の悪さはどうしたことだろう・・

品行方正だったオールマイティ君は、変容する。
一方的な恋慕から一転し、一方的な暴力に駆り立てられてゆく。
あんたの好むような「支配」をすれば、愛を返してくれるのか?
少しでいいから優しさをみせてくれ。

結局、「支配されること」は彼女を変えはしなかった。彼女の望みだったはずだが、
おそらく自分でもそれが望みだと思っていたのだろうが、そうではなかった。
コトが終わると、憑き物が落ちたように、彼は去ってゆく。
傷つき呆然となっている彼女。無力感が漂う・・が、
ここまでなら、まだいい。とんでもないけど、まだいい。
ところが、彼女はその夜、母親に狂ったように覆いかぶさり、性行為をしようとする。
老いた母親の性器を見ようとする。
被支配から支配へ、女性性から男性性へ、情念、理性、なにかが爆発するが、
正常な愛も異常な愛も、肉体も妄想もなに一つ、彼女には残されない。
どこまでも不気味に空っぽだ。。

狂気の一歩手前、ぎりぎりのところにいる彼女。
傷つけたはずの生徒たちが、明るく立ち直っている。
平然と明るい笑顔で「先生」と声をかけるオールマイティ君。
さっさと正常な世界に戻っている。この底意地の悪さ、あーーーー胸糞が悪い。。
隠し持った包丁で、メロドラマならオールマイティ君を刺すだろう。
だが、これは違う。。。

最後の最後まで気味が悪いほど人を突き放す映画だった。


#この映画の大事な主題はシューベルトである。
「厳粛な狂気」「狂気の境目に佇む意識」と呼ばれるシューベルトは
透明な美しさと、絶望、孤独、暗澹、、梅毒で脳を冒され極貧のうちに餓死したという。
享年31歳。

【 うぎゃ〜っ!! 追加 】
あのオールマイティ君、どこかオカシイ、残酷な奴だと思ったら、
「人生は長く静かな河」のあのモモだったのか。
あの映画も、底意地が悪くて悪くて、、、映画館でのけぞった、忘れられない映画だ。。
わたしはフランス映画の「どっぷりと皮肉を利かせたコメディ」って奴が苦手で、
「言われんでも人生の滑稽な残酷さはわかっとるわい。せめて映画は幸せにしてくれよぉ〜」
という甘い人間なのだ。
どうも、ブノワ・マジメルが出演する映画は、踏んでしまった地雷みたいな感じだ。。

おっと、「王は踊る」も見てるわ。うへぇ、ますます、ヤバイ。
12才年上のジュリエット・ビノシュと結婚してんのか。なるほどねぇ〜。
(2004.11.6)


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デューン / 砂の惑星 ( Dune ) アンド デューン / 砂の惑星2( Children of Dune )

アメリカSciFiチャンネル製作のテレビ用ミニシリーズ。
2000年に「Dune」2003年に「Children of Dune」放送。

感想は日々の記録のほうに書いてしまったのでリンクのみ。

(2004.10.06)

(2004.10.09)


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