更新記録 2017年6月1日から2017年7月31日まで
まさかこんなに7月が忙しい月になるとは。
31日になってようやく一息つけました。
「忍びの国」公開の1日は、もちろん午前も午後も映画館に居て、
さらに3日、6日とレイトショーに行って、この週思う存分大野君にひたっておいて本当によかった・・・
7日に仕事のデータが送られてきてからは、まともにご飯を食べた日が無くて、ちゃんと寝た日もほとんどなくて。。
ネットワーク管理の仕事に加えて、数年前からデータ解析を手伝っているわけですけど、今回送られてきたデータは自分自身が関わっているものなので、ちょっとしたお手伝いよりもやる事が多いんですよね。
さらに、これには締め切りがあって、しかも、解析が済んだ後に気付くような問題があとからあとから。
「あれも調べて比較して」「これはどうなってる?」「やばい、忘れてたっ」などなど、、、
個人的には、こういった解析仕事をきついものにしているのは、図を作らなければならない事なんですよね。
プログラムから出力された図はA4一枚にそれだけなら問題ないのですが、A4の中の8分の1くらいの広さしかないところに嵌め込むと、X軸やY軸に書いてあった字なんてとっても小さくなってしまうから、見やすいサイズの数字や文字を全部あとから狭いところにちまちまと入れて揃えたり、この図とあの図を組み合わせたり、、解析仕事と同じくらいの時間を図の仕上げに使うわけで。
解析する作業と図を作る作業って違うんですよねぇ。。
そりゃお料理のシェフは盛り付けまでが仕事でしょうから、それと同じと言われたら返す言葉もございませんが。
何時間も図を直していると「あぁーーっ!」と大声出したくなります(爆)。
そんなこんなの怒涛の7月ももう終わり。
テレビも見ないし、掃除も洗濯も買い物もろくにしなかったし、唯一ちゃんとやった事は庭の手入れくらいで。
ニコちゃんにも相当負担をかけてしまいました。
今日が締め切りだった仕事は、まだ最終稿が来ていないけれど、おそらく深夜には終了するでしょう。ホッ。
ほっとしている場合ではありませんでした・・・涙
図の差し替え指令がきましたヨ。深夜になってもまだ終わらないっす・・
明日の朝まで頑張ります・・・
「忍びの国」の公開まで、あと少しですね。
舞台挨拶の抽選には勿論外れましたが、初日の挨拶の中継つき、初回上映のチケットはゲットいたしました。
実は午前の回と午後の回、ふたつチケットを買ったのです。
ははは。
そうしたら、2日目の大阪での舞台挨拶も中継する事が急遽決まりましたね。
二日目のチケット、、悩むわ(悩むんかいっ!)
雑誌、山ほど買ってます。。はぁ。。。
「堆塵館 (アイアマンガー三部作 1)」 エドワード・ケアリー
「望楼館追想」よりもこなれていて読みやすいのだけれど、怒涛の勢いといった望楼館のトンデモ世界が意外にも好きだった私。
涙や汗をぼうぼうと流す人がいないと寂しいわ(爆)。
さて、堆塵館
下僕になってしまうと本当の名前を忘れてしまうのに、物になると本当の名前だけが残る。
人間として生きている時は名前を失う ー 物になってしまうと名前だけがある、、
面白い番組がないなぁとか、テレビが五月蝿いなぁと思うと、テレビを消せばよいんだけれど、それだと寂しいというか、落ち着かないというか、そういう時はたいていBSの放送大学にリモコンをあわせるんですよね。
そんなとある日、「歴史と人間」と言う話だったか、歴史家がいかに歴史を研究するか、みたいな話があって、それがとても面白かったのです。
放送大学の歴史のページ
これの第9回、マルタン・ゲール、メノッキオ、そしてピナゴへ −民衆の生きざまを掘り起こすって回だったのですが、普通の人々とは名前が残らない存在で、そんな無数の人々のうちのわずか数人が、当時の台帳や裁判記録や回顧録などで掘り起こされる。
わずかな記録から、16世紀の人間が生き生きと浮かび上がる。妻や子を捨てたマルタン・ゲールが6年後にひょっこり戻ってきて、失踪する前より良き夫、良き父になる。
疑いをもった叔父が裁判所に訴え、証拠不十分で無罪になろうかというところで、本物のマルタンが戻ってくる。。
(本当のマルタンよりずっと良い男だったというのに、神様は意地が悪い)
なんだか妙に、「帰ってきたマルタン・ゲール」のエピソードと望楼館のフランシスが集めたものや堆塵館の誕生の品が重なり、物が示す人の名前というのは、そのとおりの事だと思いましたね。
誕生の品と所有者は同時には人間になれず、どちらかが人間になればもう一方は物になってしまうのか?
品と人とでは時間軸が違うから、品は人の未来、人は品の過去なのかなぁ。
モーアカスの誕生の品だけ違うのはなぜなのかしら?
物語はえーっ?!予想を超えた展開で、終わってしまいました。
商売上手だわ。続きを読むしかないですよね。
それにしても、土地を持っているものが権力を有する。
で、その土地は何に使うのか?っていうと、ゴミ置き場! なんたる皮肉。
「望楼館追想」 エドワード・ケアリー
図書館で借りて読了。
わたしは物にあまり執着が無いほうで、コレクションも特に無いし、子供時代の思い出の品とかぬいぐるみ、といった大切にしている物もないし、親の形見も無い。
物と結びつく思いが薄いのは、記憶力が悪いせいだと本気で思う。
弟と話すと「え?そんな事あったっけ?」と思う事がしばしばあり、もはや自分の子供時代をちゃんと思い出せないほどなのだ。
こんな人間だから、ケアリーの世界の対極にいるが、物がとてつもない力をもっている事はよくわかる。
ピーター・バックの「ケイロン」、愛や憎しみ、全能性、恐怖、暴力、高揚、、何もかもが詰まっている「ケイロン」、、
ケイロンはどこにある? これにはぞくっとした。
だが、ケイロンほどインパクトがある物が他には無かったように感じた。
盗品のリストは偏執的で、呆れるほどの凄さだが、私にはそれの面白さが分からなかった。
過去なんて思い出さず不動でいれば愛されていない事も気にならないはずだったのに、時間は止まってくれない。
物は歳をとらないが、人間は老いてゆく。
なぜ我々には肉体があるのだ、出来ることなら毟ってしまいたい。
絶対そう思っているよね?
この作者が描く人間たちは、汗をだらだら流し、涙をぼうぼうとこぼし、皮膚を掻きむしって血をしたたらせ、きりきり痛む眼に苦しみ、みんな「肉体」に攻撃されながら生きている。
不動不変の蝋人形に魅せられるフランシスや作者のケアリー。
白い手袋は、肉体性を極限まで排除できる魔法の仕掛けで、白い手袋をはめることで自分が「血と肉と骨の塊」であることを忘れさせてくれる。
そうやって不動不変に安らぎを見出せたのに、変化が訪れてしまう。
正直、途中まで面白かったが、解体からラストまではちょっと「はてな?」だった。
フランシスやアンナは若かったので再出発ができたようだが、歳をとっている者たちは死ぬくらいしか選択肢が無い。いっそのこと不動のままで死を迎えた方が幸せだったのでは、と思ってしまった。
南高梅3kg漬けました。
今年は小梅の時期をうっかり逃してしまい、カリカリ小梅は無し。
麻耶雄嵩さんの「貴族探偵対女探偵」も読んでしまいました。
「こうもり」と「いづな様」は同じトリックなんですね。
作品としては「こうもり」のような切れが感じられなかったのですが、テレビでは映像の力が発揮され「いづな様」が面白く仕上がってましたネ。
それにしても、貴族探偵が失礼で嫌みで高慢すぎて、、愛香さんが可哀相。
水戸黄門の現代版っていっても、使用人たちが調査・推理しているだけで自分は何もやってないじゃん、と文句の一つも言いたくなる、、この平民の腹立ち自体が麻耶さんの想定内なんだから、あぁ、麻耶雄嵩は麻耶雄嵩だ・・
「貴族探偵」
相葉ちゃん主演のドラマ、続けてみているうちに結構気に入ってしまい、麻耶雄嵩さんが苦手なのに、原作をポチしました。
最初は図書館で借りようと思ったのですが、予約待ちが10人以上おりまして、ええい、ポチっ。
日本語用のキンドルを買ってしまってから、こういう事あるんですよね。
で、あぁやっぱり、麻耶雄嵩は麻耶雄嵩だった。。。
なんなんでしょう、このネジレタ賢しさ(さかしさ)。
「してやられた〜」にも2種類あって、トリックや着想の妙に感心する楽しさというより、「え゛ーっっ、なんだかなぁ、え゛ーーーっ、、」、作者の意地悪なほくそ笑みを紙面から感じてしまいます。
短編集なんですが、なかでも「こうもり」というタイトルが、読み終われば「コンチクショー!!!」なタイトルでございました。秀逸すぎるわ。
読みながら「変だな、誤植か?」と思っていた私はオバカさん(ぶすっ)。
まさに「麻耶雄嵩降臨」でした。
それにしても、原作を読むと、想像以上に相葉ちゃんは御前さまに合ってますね。
ドラマの脚本、頑張ってるわ。
原作とは違う面白さを爆発させてるじゃないですか。
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