2005年その5                  ラテンアメリカ映画リストへ   ラテンアメリカ軍事独裁の歴史簡易年表


100人の子供たちが列車を待っている Cien niños esperando un tren(1988年 チリ)

イグナシオ・アグエロ監督。

チリでは、1973年から1990年まで、ピノチェ将軍(のちに大統領)による
軍事独裁政権が続いた。
余談だが、レオナルド・スバラグリアが出演している「NOWHERE」は、架空の国という設定だが、
実際はチリのピノチェ時代のデサパレシード(desaparecido)を描いている。

ま、このドキュメントは、独裁の末期にあたり、このようなドキュメントの作成が
可能であったわけだが、日本でいう小学生の年代の子供たちの日常にも暗い政治の影が
さしている。

さて、本題にはいると、

これは貧困地区の子供たちに「映画とは?」を教えて続けている女性教師の半年間を
記録したものである。
映画の原点である、人間の目の残像のしくみから始まって、フィルムのコマ、
物語としてのシークエンス、役者、カメラ作法、と、子供たちに語られる内容は
広範囲に渡り、映画の仕組みと同時に、映画史の授業にもなっている。

すべて平易な言葉で語られているが、そこにあるのは、豊かで美しく深い知性だ。
彼女の話を聞きながら、映画や芸術の持つ力を信じる静かな情熱に心を打たれた。

多くの人に見てもらいたい、素晴らしいドキュメントだった。

教室の内容と並行して、教室にやってくる子供達にインタビューが行われるが
その日常の姿も大変重い。
ノートを買うために、ゴミの中からダンボール集めをしている日常だ。

彼らが自由に映画を見る日はくるのか?
彼らが自分たちの手で映画を作ることができる日は来るのか?

チリの軍事独裁は終焉したが、世界はそれから少しは良くなっているのだろうか・・
(2005.04.16)
 
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ドット・ジ・アイ Dot the I(2003年 イギリス・スペイン・アメリカ)

2003年のサンダンス・フィルム・フェスティバルで大きな話題をさらった作品のひとつ
というのが売りだが、
う〜ん、ごめん、、実はあまり好きになれなかったのだ。
キット(ガエル)とカルメン(ナタリア・ベルベケ)とバーナビー(ジェイムズ・ダーシー)
主役の3人の演技は良かったと思うが、、
ま、人の感じ方はいろいろということで許してもらおうか。

一見すると普通の三角関係が、一転二転する思いも付かない展開とか、
ネットを検索するとこういうのが次々と出てくるが、そうだろうか?

(ねたばれになるのでここから下はコントロールAか、ドラッグしてください)

最初から、ずっと外部から撮影しているものがいる、というのが示されている。
この外部から撮影してるもんは一体何者だろうと、最初はわたしもどきどきしてみていた。

だが、キットがカルメンに、君に渡したいものがあったんだ、と言って、
ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」を渡したとき、
え?
ものすごい違和感を感じた。なんだか唐突だ。
やだな・・

どこかから、俺って頭いい?って匂いが少ししてきた。。

「予告された殺人の記録」は、新婚の初夜に、花婿が花嫁を追い出す話である。
花嫁が処女でなかったと言って実家に返すんである。
んでもって、花嫁の兄弟2人が、花嫁の処女を奪ったとされる男サンティアゴを殺すんである。
みんなに「あいつを殺す、あいつを殺す」と言って、広場で殺すんである。

「予告された殺人の記録」を映画に出した時点で、この映画の作者(Matthew Parkhill)は、
ネタをばらして、しかも『僕は裏をかいてみせますよ』と言っているようなものだ。

そうか、おそらく、これは「ヤラセ」なんだなと思って見ていると、案の定だった。
この映画では、バーナビーが花婿、カルメンが花嫁、キットはサンティアゴで、
まぬけな二人組が花嫁の兄弟に重なっているが、
頭のよい作者は、
「な〜んちゃって」
「な〜んちゃって」と捻って
予告したとおり、捻った殺人を見せてくれた。
たぶん殺されるのはバーナビーだろうと思っていたが、それをちゃんと、
まぬけな二人組が加担してくれ、「予告された殺人の記録」変奏曲になった。

冴えてるよ。

だが、”すべてが夢でした”の「夢落ち」と共通する「な〜んちゃって」系は
恥じらいがあってこそ、面白いと思うんだけれど、
この「僕って冴えてるでしょ?」的な雰囲気は、、う〜ん、最後までなじめなかった。

そして、とても嫌だったのは、
『冴えてる人間は、嫌な奴を殺しても罪に問われない』という結末だった。
ひどい事した奴は殺されてもしかたないさ、あっはっは(笑)
みたいな「死」の肯定って、ごめん、あまり好きじゃないのよ。
「してやったり」と胸がすくトリッキーな結末とは、一線を画すと思うんだけど、そうじゃないのかな。

まぬけな二人組が、殺人の重みよりも、自分らの宣伝価値によって、興行が成功したことに
興じるのも、最後まで「〜なんちゃって」という感じで、作者の才気は認めるが
後味の悪い終わり方だった。

#ガエルの英語って、上手いんだけれど、声質が変わってしまって、なんだか
ショックだった。スペイン語をしゃべってる時の、マシンガンのような歯切れのよさが
無くなってしまう。。
どこかに、もっさいキアヌ・リーブスみたいな英語だと書いてあったが、ちょっとわかる気も・・・(爆)
(2005.04.16)
  
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オクラホマ!  Oklahoma! (1955年 アメリカ)

大ヒットミュージカルの映画化。ロジャース&ハマースタインの歌は
どれも王道って感じで心地よくなじむ。

日本語字幕をみて、ようやくストーリーの細部がわかった。
そうか、農民と牧童の対立構造がここにはあったのね。
舞台はオクラホマが州になる前の、1908年というのだが、すでに電話や7階建てのビルが
都会ではできていると話しており、近代化へと突き進む時代だ。

映画はダンスシーンになると、主役のふたりカーリーとローリーが別人になる(笑)。
顔よし、歌よし、なんだけど、たぶん踊りは苦手なのね。
一瞬、あれ?あんた誰? とか思ってしまったわ。

さて、ふたりの意地の張り合いにまきこまれ、結局袖にされたジャッドが、
どー考えても可哀相に思えるが、どうなんだろう?
暗い陰湿なタイプだとしても、ダシに使われてしまい、あげくには邪魔者扱い、
誰だって悔しくなると思うぞ。。
ま、オハナシのためのお話だと思って我慢だけど。
(2005.04.21) 
 
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赤い薔薇ソースの伝説 Como agua para chocolate (1992年 メキシコ)

ベストセラーになったラウラ・エスキヴェルの処女小説の映画化。
作者ラウラと、この映画を監督したアルフォンソ・アラウはその後結婚したが、
今は離婚している。

相思相愛のふたりが結ばれることなく長い年月を過ごす物語の背景は、
19世紀末から20世紀前半のメキシコ、テキサス州との境の農村で、
時代はメキシコ革命(1910年)の前後である。

革命をはさみ、古い因習の崩壊と新しい世界の始まりを描いたメキシコの
物語であり、ハーレクイン的な御伽噺でもある。

以前、更新の記録(2004・7/13)でネタばれを書いているが

原題の『Como Agua Para Chocolate』( Like Water for Chocolate )
ココアを作るためのぐらぐらに煮え立ったお湯、のイメージどおり、
悶々とねっとりと帯電している空気は、一昔前の「光はエーテルの中を進む」みたいな
実体があるかのような空気で、深刻なくせに、どこか滑稽でもある。
中南米の魔術的リアリズムと呼ばれる世界は、過酷な現実と奇妙で滑稽な幻想が
違和感なく重なっている。


実は何度も見ている。。
どーしてだか、わたしのツボをつく。
人生って奴の、残酷で滑稽な雰囲気がいいのだろうか。

理性的に考えてみると、ヒーローは、22年も思い続けるほどの奴じゃない。
どこがいいんだ?!って感じの、頼りない奴である(爆)。
いつまでたっても大人になれない男である。
ヒロインに真心を捧げてくれるドクターのほうが断然良い。
にも関わらず、賢くてしっかりしているヒロインが愛し続けるのは、
このしょーもない感じのヒーローなんだなぁ〜。
いやはや、愛は理屈じゃないってわけね。

夜な夜な編み棒を動かす。
眠れない夜に動かし続けた編み棒は、長い長いひざかけ?毛布?となり、
長い長い長い長い・・・果てがないほど長い編物になる。
涙と苦痛でできた編物。
このイメージが大好きなんである。


#それにしても、かあちゃん、恐すぎっ
(2005.04.21)
 
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もういちど Innocence (2000年 オーストラリア)

50年前に親に引き裂かれた初恋。
それからそれぞれは、全く別の人生を歩み、家庭をもち、子供を育て、
人生の終りにさしかかる。。
そんなとき、50年ぶりに初恋の男は女に電話をかける。
「こんな近くに暮らしているなんて思いもかけなかった。君に会いたい」と。

男は何年も前に妻を亡くしているが、女は夫のある身。
人生の終り近くになって、家族を傷つけたくない。。。が、でも。。

老人の愛とsexを真正面からとりあげていて、胸が痛くなるほどだ。

変わり映えのしない平穏な毎日が、突然揺らぐ。
動揺する夫の気持ちも痛いほどわかる。
最初は勝手な妻に怒り、傷つき、妻が去ってしまう怖れにうちのめされ、、

何が正解というのでもない。誰かを責めるものでもない。
愛し、愛される喜びの前には言葉を失う。
映像がとても美しく、若いふたりと今のふたりが交錯して、
「限りある人間の生」がいとおしくて切ない。

それにしても、もし逆の設定だったら、もし、70になって夫が
「恋をしてる。好きな人がいる」と言って家を出て行ったら、と考えると、
こんな風に平静には見てられなかったかもしれない。。
(2005.04.25) 
 
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アレックス  Irréversible (2002年 フランス)

ギャスパー・ノエ監督の作品は初めて見るので、冒頭に登場する男性ふたりが
これまでの作品に関連した人だということは分からなかったが、
他の人の感想などをみると、そうらしい。

原題の意味は、「不可逆」「とりかえしのつかない」「元に戻らない」

さて、のっけからカメラがぐるぐると回って、狂ったような動きで吐きそうになる。
ポケモン騒動を思い出し、思わず目をつぶってしまった。

しかし、ここで踏ん張らないといけないのダ。
この映画には大事な登場人物が4人いて、そこのところをしっかりと見ておかないと
いけない。
ほれぼれするほどの美女。特にヒップや背中の曲線が美しいったらないアレックス。
アレックスの元恋人で理屈屋のピエール。現在の恋人でサル並みの思慮のマルキュス
アレックスをレイプするホモの極悪テニア。

シークエンスの時間軸は逆向きである。
最初に警官や救急車が店の前に駆けつけるシーンがあり、
次にテニアを狂ったように探すマルキュスのシーンがあり、
次に暴行をうけたアレックスが救急車で運ばれるシーンがあり、、
・・・と逆行する。

だが、別に謎解きではない。作者が語りたいのは、たぶん、残酷な「生」と「運命」の姿だ。

時間軸をさかのぼると、数々の気味の悪い符合がそこここに登場し、
残酷な運命の歯車の音が聞こえてくるような気になり、
最後は
「生れ落ちたときから」こういう運命って決まっていたんだろうか、と打ちのめされる。

人生は一寸先が闇だと気付かずに、惨殺されたりレイプされる運命が待ち構えているとは
気付かずに、ほんの少し前まで幸福な顔をしてわたしたちは生きているんだ・・と
からだの芯まで寒くなる。
凶暴なカメラの動きが、だんだん落ち着いてきて、最後は静かな映像かと思いきや、
ラストだけ、またまたピカッピカッぐるぐるぐる、、あぁ、気分が悪い・・・

キューブリック監督へのオマージュなのか、「2001年宇宙の旅」の胎児映像や
「バリー・リンドン」で使われたヘンデルの「サラバンド」が流れる。

気味の悪い符合は(あとから考えると虫の知らせって奴なんだろうが)、
腕がしびれると言うマルキュスや、男の快感について語るピエールや、赤いトンネルの
夢をみたアレックスなど、、ほんま、暗い未来を予言していたわけで、ぞっとする。

しかも最悪なのは、ここ。ネタバレになるから白字にするが

テニアを見つけたと思って殴りかかったマルキュスが、逆に腕を折られてしまう。
そして、カマを掘られそうになる。
すると暴力を嫌って終始マルキュスを止めようとしていたピエールが、
消火器で、その男の顔をぶったたく。狂ったようにぶったたく。
だが、、その男はテニアじゃない!! テニアは男の横でニヤニヤしてたんだよぉ〜。

だからアレックスがテニアにレイプされるシーンまで遡ったとき、
ガーーン!!あいつじゃないじゃん!!あの、消火器でぶったたかれた男じゃないじゃん!!
と大ショックを受ける。
せめてテニアに復讐してやりたいぞっ これじゃやったもん勝ちだぁ〜っ

ここがほんまに最低だっ!
アレックスのレイプシーンは、これまで見た映画の中で最凶最悪だった。
女優魂をみせてもらったが、、、なんとも・・

なぜ、こんな映画を借りたか、というと、
監督がアルゼンチン生まれって書いてあったからなんだよぉ。あぅっ。
(2005.04.27)
 
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ウェルカム!ヘヴン Sin noticias de Dios (2001年 スペイン)

原題は、「No News From God」
個人的にはとても楽しみました。こういうひねた味わい、好きです。
地獄が英語、天国がフランス語、地上がスペイン語ってのもセンスが良くて笑えるわ。

更新の記録のほうに書いたように、正しい地獄って何?ってのがわたしにはツボでしたね。
クリスチャンでないので、面白がるポイントがずれてるのかもしれませんけど。

裏切りやクーデターを起こす、いかにも小狡そうなアメリカ人副官たちのほうが
地獄にふさわしいキャラクターで、
罪人を罰し、地獄にクーラーなどもっての外という、正しい地獄のあり方を信奉する
地獄側総本部長(ガエル君)のほうが、
「あんた、そりゃ、天使の発想だ」でしたよね。

で、天国や地獄が右往左往してるのに、神様は何も答えちゃくれないってとこが
人を食っていて面白い。

ただ、ストーリーとしては、かなり弱いというか、お話のためのお話という感じで、
ボクサー、マニの魂を救うと、はたして、カオスで言うところの「バタフライ効果」が
生まれるんでしょうかねぇ。
ちょっと無理矢理感がありましたね。
俳優の演技は素晴らしいが、脚本はちと・・って作品かなぁ。

ハビエル・バルデムには笑いました〜。

#おまわりのねえちゃん、恐ろしかったですねぇ。凄かったですねぇ。
一番心に残ったのは、実はこのおネエチャンでした。
Cristina Marcos クリスティーナ・マルコス。
ちょっとだけ美人になったキャシー・ベイツって感じ?調べると、
95年にゴヤ賞の主演女優賞をとっていて、その他の映画祭でも
たくさん受賞歴がある人なんですね。いやぁ〜、凄かった。
(2005.04.26)
 
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A Very Old Man with Enormous Wings (1988年 スペイン・キューバ)
   Un Señor muy viejo con unas alas enormes (大きな翼を持った老人)

ガブリエル・ガルシア・マルケス原作の短編を元に本人が脚本にも関わり、
アルゼンチン人フェルナンド・ビッリが監督。英語字幕で鑑賞。

原作の短編よりもっとクレイジーな感じになっている。

わたしは正直なところ、マルケスの本ってどこが面白いのか、ちっともわからないのだ。
先日書いた「予告された殺人の記録」も実は全然面白いと感じないし、
見る目の無い奴なんである。とほほ。
一体何が言いたいんだろ??と、首を捻ってしまうのだ。

そこでネットで参考意見を探すと、この本や映画について、まともに語っている人を
ほとんど見つけられない。
一番困るのは、「ラテンアメリカの現実を反映させた寓意的な作品」とかいう、
わけがわかったようで全然わからない説明。
こういうのって何にでも使えそうな言葉だよね。例えば、

この本は、今の日本の現実を反映させた寓意的な作品だ。。。とか
このドラマは、今の日本の教育制度を反映させた寓意的な作品だ。。とか
この料理は、今の日本の食生活を反映させた寓意的な作品だ。。とか
えぇいっ、なんでも来いっ!(笑)

さて、
薄汚れてボロ布をまとった、下腹のでた、ぼろぼろの翼がはえた老人が、
貧しい夫婦がゴミを投げ捨てる汚らしい海辺でもがいている。

雨がじゃーじゃーと降って、あたりは泥と蟹だらけで、うんざりする所なんである。

翼が生えてるし人間じゃない。姿かたちは天使って事になるが、
美しく清らかで神々しいはずの「天使」だなんて、思いたくもない。
夫婦は仕方ないので鳥小屋に彼を放り込む。

うぎゃ〜っ!エンジェルだわさ〜っっ というけたたましい噂に
わらわらと人が殺到し、夫婦は見物代をとって翼を持った老人を公開する。
うぎゃ〜っうぎゃ〜っ と、ご利益を求めて、あっちこっちからカーニバルのように
人がやってきて、もうお祭り騒ぎだ。

物語はクレイジーなフリーク大会のようになり、わたしの脳裏には
レトロなポプラ社の「少年探偵団シリーズ」の表紙絵がフラッシュバックする。
青銅の魔人、サーカスの怪人、赤い妖虫、、柳瀬茂先生の挿絵が一番!(なんのこっちゃ)

原作ではひと冬だが、映画では6年の月日がたち、翼のある老人は飛び去ってゆく。

宗教とサーカスは紙一重ってことなのか?
神さまは「美」か、または「ご利益」がなければ、ただのフリークってことなのか。
ブタに真珠、ねこに小判ってことなのか。
非日常が入り込んでも、あっさりと日常に同化してしまうラテンアメリカ社会の
猥雑さと滑稽さを描いてるのか。。

うーん、とんでもなく変な映画だということは、断言できるぞ。
そして、NHKBSが過去に放映したのが、考えれば考えるほど不思議だ。
 
 

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