2004年その5 ラテン映画リストへ
Don't die without telling me where you're going (No te mueras sin decirme adonde vas)
(1995年 アルゼンチン)
以前から見たいと願っていたら、つい最近DVD化され、さっそく購入。 英語字幕で見た。 生きることへの恐れと死ぬことへの恐れ、いずれ死すべき者が生きるということは 一体どういうことなのだろう・・ 「なぜ我々は生きるのだ?」 深い哲学的な問いに対し、時にユーモアを交え 時には泣かせ、映画ならではの美しい映像と音楽で考えさせてくれる。 うまく言葉で言い表せないが、幻想的でありながらとてもリアルで、 美しく繊細で知的である。 古びた映画館で映写技師として働くレオポルドは、素人発明家でもある。 結婚20年になる妻との間には子どもは無く、くたびれた関係になっている。 長年研究していた、夢を記録する装置「ドリームコレクター」がついに完成し、 彼の夢のなかにあらわれた不思議な美女レイチェルの姿が見えるようになる。 彼女は前世の恋人で、何度も二人は転生しているという。 だが、前回の死のあと、レオポルドは再び「生まれる」道を選んだが、 レイチェルは転生を選ばずに霊のままでいる。 父の死、売却が決まっている映画館、失業の不安、さめた妻との関係、 人生を傍観者のように見て、愛を忘れているレオポルドであるが、 レイチェルは、その痛みを伴う「生きること」を恐れている。 だが実体のないレイチェルをレオポルドは抱きしめられないし、 くちづけも交わせない。 話はふたりの切ないロマンスに終始するわけではない。 レオポルドの友人(車椅子の発明家)や、彼の発明したロボット、 映画館主、死んだ友人、そして妻、、奇妙な世界と現実があり、 それぞれの「夢」と「生」を見つめる優しさがある。 この物語は多層的なイメージをもっていて、 ロマンスの物語である一方、ニューシネマパラダイスのように、フィルムを 愛した男達の物語でもある。死んだ父親、老いた映画館主、それぞれの夢がある。 さらに、この題名をみて、アルゼンチンを知るものならば感じるだろう、 メッセージも含まれている。 行き先を告げずに死ぬな・・・強制連行、「失踪者」を喚起するこの言葉。 そのとおり、物語の中で、ひとりの青年の霊が現れる。 ドリームコレクターを使用するようになってから、レオポルドは 時々人間のエネルギー、愛のエネルギーが見えるのだが、 とある喫茶店で、彼は亡くなったはずの友人を見る。 友人は、彼の向かいの席に座り、優しい顔で、彼に話し掛ける。 自分が埋まっている場所を母親にどうか伝えてくれ、と言う。 困難な時代に、夢を抱いて生きていくこと、 愛、つながってゆく命、後世に語り継ぐ物語、 見終わると胸がいっぱいになり、気付くと涙が流れていた・・そんな映画だった。 # おやまぁ、レオポルドを演じたダリオ・グランディネッティって、「トークトゥハー」で ルポライター、マルコを演った人じゃない。髪の毛がなまじあるから 気がつかなかった(笑)。数々の賞を受賞している人なんだわ。 スバラグリアは死んだ友人役で登場♪ (2004.11.16) ------------------------------
スール、その先は・・愛 Sur(1988年アルゼンチン・フランス)
これは独特。タンゴ音楽と幻想に彩られた、ある一夜の物語。 アルゼンチンの軍事政権(76−83)の実態を知らないと、理解しにくいかもしれない。 この8年間に多くの市民が思想犯として投獄された。 虐殺され今も「行方不明」とされているのは最初の3年間に集中しているそうだ。 だから、この主人公が5年の投獄後、政権の崩壊によって生きて出所できるのも、 また、人々の暮らしが疲れきっているのも、理解できる。 とにかく暗い。主人公は出所し、そのまま家には帰らず、夜の街を彷徨する。 心の闇を、困難な5年という歳月の闇を、彼は通リ抜けなければならない・・。 死者が語り、死者が歌う。変貌した人々、変貌した街。 祖国の未来も暗い。 出所したところで、職が無い現実。 孤独と愛も綺麗ごとではなく、人の心のもろさを描く。 それでも最後の最後、もう一度、愛を信じてみるという救いがあるのでほっとする。 全編ピアソラのタンゴが、人生酸いも甘いもかみわけた初老の男性によって 歌われる。 (2004.11.18) ------------------------------
天国の口、終りの楽園 Y tu mám también (2001年メキシコ)
浮かれた馬鹿騒ぎと狂態のはずが、秘めた思いや傷を曝して無邪気な若さを失う旅となる。 ぴちぴちした青い性が苦々しさで終わるまでが上手い〜っ。 元の題、「君のママとも」ってのは、映画の最後の方で出てくる。 酔っ払って、互いの親友の彼女とヤッちゃった告白のあと、 実は一回じゃなかったんだ、ぎゃはははは、おれも、ぎゃはははは、 フェ○もヤッたのか、ぎゃははは、おれも、ぎゃはははは、、 とうとう、最後は「お前のママとも」 一瞬静止 ぎゃはははははは・・ この晩が、楽しい馬鹿騒ぎができた最後の晩だった。 若い男の子2人と人妻の旅は、人妻が触媒のように二人の関係を変えてゆく。 人妻の旅の理由は明白で、それはそれなりに悲しい話だけれど、観客としては 映画の最初の方で、多分彼女はかくかくしかじかになるだろうと察しがついている。 それよりも、若者二人のそれぞれの幼さとの別れが変化に富んでいて、切なかった。 sexというものはとても不思議だ。放埓に浮かれているのに、自分の彼女が 親友とヤッたと聞くと逆上し、そのくせ、親友の彼女と簡単にヤってしまう。 美しい人妻とヤリたいと思って誘ったのに、自分とヤッたあと、親友とも ヤろうとする彼女に「どうしたっていうの、これが目的だったんでしょ」と 言われると、傷つく。 あからさまなようで、実はとてもナイーブな感情を含んでいる。 剥き出しの人間関係を写しているようで、そういった一枚内側の繊細な面を描き、 メキシコの風景、太陽、土ほこり、人々の暮らし、生と死、を綴った映画だった。 それにしてもラテン系映画の脱ぎっぷりのよさは、胸がすくね。 トイレのシーンも、まんまだからね・・・ #ガエル君の瞳は、相変わらずとても綺麗だけれど、映画としては アモーレスペロスが良すぎて、これでは物足りないかも。 いや、アモーレス・ペロスが良すぎなだけで、ガエル・ガルシアの輝き、 役者としての幅の広さは、「つぎはどんな映画に出てくれるんだ」と 期待せずにはいられない。 ## あれぇ〜〜っ!!! 英語字幕版のDVDを買ったら、特典映像はメイキングで、これが面白いの なんのって。 撮影風景以外に、スタッフの紹介やロケ場所での一般人の怒り (車をはやく通せっ!!!映画のロケだって?あほかっ!!みたいな) 日本語のほうのDVDには付いてるんだろうか?ネットで調べても 日本人記者のインタビューとか書いてあるぞ。嫌な予感。 ------------------------------
Cleopatra (2003年 アルゼンチン)
英語字幕で鑑賞。 主役のノルマ・アレアンドロといい、彼女の情けない夫を演じる エクトール・アルテリオといい、60代後半の女優と70代の男優だと いうのに、主役をはる魅力があるのが凄いわ。 さて、クレオパトラという名前のヒロインは(シェイクスピア劇団を していた父親が子供たちにシェイクスピア作品にちなんだ名前をつけた)、 失業した夫との二人暮し。 彼女も教師を定年でやめ、そのあと、化粧品販売や街角アンケートやとにかく色々 働いてはいるが、最近では電気を止められお先まっくらである。 息子と娘は元気でやっている様子だが、それぞれ、スペインとアメリカで暮らしている。 もっと素晴らしい老後を迎えるかと思ったのに、お酒にすがる夫の愚痴を聞きながら、 思案に暮れる日々。 そこに、メロドラマをやめたいと思っている昼メロ人気女優サンドラが絡み、 サンドラにつきあって共にブエノスアイレスを後に、旅を出てしまう。 行く先々で家に電話して、泣き言をいう夫に「もうじき帰る」と言いながら、 どこまでも旅を続ける。 美しいメンドーサの風景。 ヒッチハイクしていたふたりを拾ってくれたメンドーサの男カルロス(スバラグリア)と サンドラの恋、 旅先で出会う、幸せ未満の人びと。 どこまで行くんだ? 行けるとこまで行くつもりか? 開き直った明るさ、 今わたしはとっても幸せよ、という強さがたくましい。 メンドーサってどこ? 南米の地図はこちらで ------------------------------
La puta y la Ballena (The Puta and the whale) (2004年アルゼンチン)
英語字幕で鑑賞。 カメラワークが美しい。パタゴニアの映像は、一見の価値あり!! そして、嬉しい事に内容もまた素晴らしい。。 70年前のスペイン内戦中に死んだアルゼンチン人写真家エミリオの 残した手紙や写真に興味をひかれ、手紙の宛て先の女性とは何者だろうと 調べ出す女性雑誌ライターのベラ。 現代と70年前のドラマが交錯しながら、最後の一点に向かって収斂する。 現代のドラマにはカタロニア地方出身のヒロイン(ベラ)と男2人 (スペイン人編集者のジョルディとアルゼンチン人ダイバーのアーネスト)がいて、 過去のドラマにはカタロニア地方出身のコーラスガール、ドロレス(通称ロラ)と アルゼンチン人写真家エミリオ(スバラグリア)がいる。 ベラは進行性の乳がんで手術をして左の乳房を失う。 人生が残り少ないと感じるとき、人は何を求めて生きるのか、 自分が何を求めているのか、わからない不安に立ちつくすベラ・・ 死への不安と同時にベラが深く傷ついているのは、乳房を失った女とは、 いったいどういうことか、わからないからである。 この映画は、極端なほどに、女から「母性」を排除している。 登場人物たちの多くは、父親の圧力や干渉を意識して、父親を嫌ったり 父親から逃れたりするが、母親は一切でてこない。 ベラには幼い息子がいるが、息子のために生きよう、なんて考えは、 これっぽっちも出てこない。影の薄い夫の元に預けられて物語の中心からは 早々にはずれてしまう。 アーネストの祖母が登場するが、それさえも、実の祖母ではなく、祖母のようなもの、 祖父の愛人だった女なのである。 こうして、出てくるのは娼婦としての「女」、ファックする女だけなのである。 乳房を失ったということ、イコール、ファックする気を男に起こさせない女に なってしまった、男に振りかえってもらえない女になってしまったと嘆くベラ。 その彼女の対角線にいるのが、ロラである。 物語は巧妙に、両者を結びつけてゆく。 映画は、性的対象としての女が自分を生きるとは何か、を探す旅でもあり、 じつはもっと普遍的な、人間の苦悩ー限られた生を生きるとはどういう事か、を 描いている。 ジョルディもアーネストもロラもエミリオも、出てくる人間すべてが 愛する者をこの手に掴めず、孤独のなかで生きている。 おりしもパタゴニアの浜にうちあげられてしまった鯨は、身動きが できなくなっている。 それは答えがみつからないベラでもある。 潮が満ち、鯨はふたたび海原に向かうのか。。。 印象的なセリフが沢山出てくる。それらをすべてここで書いているわけにも いかないのが残念だ。 さらに、どうやら、スペイン語圏の人にとっては、わたしが字幕を読むのとは 全く違う味わいをこの映画に感じるらしい。 つまり、標準的なスペイン語とカタロニア訛りとアルゼンチン訛りが 個性を演出しているのだ。 #みーはー的感想。 でてくる男が、みんな、とんでもなく良いよ〜っ。。 やばっ!やばいよ、マジで。 とんでもなく濃厚な性的雰囲気をかもしだすのが 盲目のバンドネオン奏者を演じるMiguel Ángel Solá バンドネオンの蛇腹をゆっくり広げた時の、あのセリフ!!きゃ〜っ!! えーーっっ!!! 「スール、その先は、、」の主役の人だった。。全然気付かなかったよぉ。。 俳優って恐ろしいわ・・(見る目がないだけかも 爆)「Tango」(1998)の主役であるのね。 胸が痛くなるほど、優しい癒しのまなざしの男が、 Edward Nutkiewicz (ポーランド国籍) この人がほんま、良かったの。。あぅっ。。この人とベラとの 最後の会話が、もうっもうっもうっ!!! (2004.11.26)
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