2004年その7                     ラテンアメリカ映画リストへ


ネス湖伝説 LOCH NESS (1995年イギリス/アメリカ)

レンタル落ちの中古ビデオって、宝の宝庫(あれ?おかしな日本語だ)。
意外なほど、精密で手の込んだネッシーの造形。美しいハイランドの風景。
ネス湖をたっぷりと堪能できる。

パブ兼宿屋をいとなむ美しい寡婦と可愛い一人娘、スコットランドテリア、
そこに投宿するは、アメリカ人の動物学者と呼ぶべきか?雪男探索で名を上げた
ヒーロー。
ふたりのロマンスも、これまたHQ的な、ほら、よくあるでしょ、
水道管を直すヒーローの様子を見ようと、上からかがみこむと、振り向いた彼の顔と
間近に向き合ってしまって、あっ・・・、慌てて離れて、また、「あ、あの、さっきは」、と
言おうとしたら、また同時に向き合って、、
みたいな、お約束で赤面なロマンスが進行して、これがまたいいのよ(爆)。
パブにつどう村人たちも味わい深くて、「マクベス巡査」を思い出す。
スコットランド好きにはお得な一本と言える。

ガバルドンの「アウトランダー」シリーズが好きな人間には、さらに嬉しいことに
冒頭登場する博士の名前がDr. Abernathy(アベルナシー)というとか、
ヒロインの娘のイザベルが4才くらいなのかしら、赤毛で青い目で霊感があって、とか
お茶の葉占いをする祖母がいたらしい、とか、くすぐられるんである。
(2004.12.02)

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ラテンアメリカ 光と影の詩 El Viaje (1992年アルゼンチン)

ソラナス監督の「スール」に続く作品、「旅」(直訳)である。

主人公は南米最南端の島、フエゴ島ウスアイア高校の3年生(?)、両親は幼い頃離婚し、
母と義理の父、妹と暮らしている。義理の父とは折り合いも悪く、学校も面白くない。
ガールフレンドとの仲も彼女の妊娠、中絶という最悪の結果となり、もう、家出して
旅に出るっきゃない。
なんだよ、けっこう甘えた奴じゃないか、とも思える出だしだが、

実の父に会いたい。父が自分を呼び寄せてくれることを夢見ていた。
今の行き場のない自分を夢のような世界に連れて行ってくれるのは父しかいない。

自転車で出発した彼は子供だった。
そして、長い長い旅をする。途中、ヒッチハイクで、船で、、メキシコまで行き着き、
彼は子供時代と決別する。。

主人公の旅の背景は、南米の現実を諧謔と風刺で綴った絵巻物だ。
そのイマジネーションは、アルゼンチンやブラジル、南米諸国の持つ問題を
いやというほど目前に描いてみせる。

クーデターを洪水になぞらえ、何度も大水に見舞われた不安定な政情で
ブエノスアイレスは水びたしの街になっている。
糞尿、ごみ、ありとあらゆる汚物とともに、死者の棺おけまでが漂う街。
「いつか浮上する時まで、アルゼンチン人よ、泳ぐのだ!」
カエル大統領が叫ぶ。カエル大統領がひざまずく。

くずれおちる建物、大揺れに揺れる大地。
大地を切り売りする国家。「ウリマス」とカタカナで書いた看板。
しめつけベルトをしている人々。浸水予報を聞いている人々。
戯画調は、「ロボコップ」(87)の作中TVニュースやCMを連想するんだが、
あれはTVの中だけが明るくてドラマ自体は暗かった。
だが、こちらの物語は作中のTVもドラマも、ロボコップより現実の苦しみを
描いているのに、より明るい。

モーターサイクルダイアリーズと同様、クスコ、リマを旅して、
その後ブラジルへ行く。ブラジルの鉱山で働き、そしてメキシコへ、
痛ましいラテンアメリカの世界を笑う苦さは飛びきりの苦さだが、
前を向く強さもある。
 
 
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Autumn Sun   Sol de otoño (1996年アルゼンチン)

移民の国アルゼンチン、人種のるつぼのブエノスアイレスで、自己のアイデンティティを 主人公のヒロインが見つめ直す話であり、かつ、人生のたそがれの恋を知的に冷静に 切なくハートフルに描いている佳作。
見るべし! 見るべし!と書きたいところだが、日本未公開の作品なんである。
この映画よりはるかにつまらない映画が大手をふるっているというのに、残念!! 英語字幕で観た。

ヒロイン、クララは、会計士で、裕福な一人暮らしに満足している55才のユダヤ系移民。
アメリカに住む弟が10年ぶりにやってくるといったところから、物語は動き出す。
立派な仕事についたユダヤ男性と婚約していると嘘をついていたクララは
慌てて新聞に広告を出す。
「真剣なお付き合いを求む。55−66才のユダヤ男性で、相応の地位と安定した収入、
高い教育を受けた方」という広告にはご丁寧にもダビデの星までついている。

そして、それに答えてきたのがイタリア系ウルグアイ移民のラウルだった。
彼は額縁作り職人で、妻を9年前に亡くし、息子はベネズエラで働いている。
ハンサムで実直な男だが、貧しいし、もちろん、ユダヤ人ではない。

ラウルをユダヤ紳士に仕立て上げようとするクララ。
食事に買い物、会話に行事、弟が来るまで一ヶ月しかないので
ユダヤ人教育スケジュールは大忙しだ。
そして、そのうちにふたりは互いの生活に関わっていく。。。
なぜ本当の自分を生きようとしないのか?誰のための人生なんだ?
これは仕事よ、個人的な関係じゃないのよ。。

この物語は、ふたりの恋が大きなテーマであるが、同時に、ユダヤ人としての自分と
アルゼンチン人としての自分を改めて考えざる得なくなったヒロインが、
自分は一体何者なのか、そういう思いにまで深くはいってゆく物語である。

ラウルには広告にこたえた理由(わけ)がある。
クララは恋に落ちるまいと思う。他人に関わらず、自分中心に
生きていられた時より、自分の心がとても傷つきやすくなっているのが恐い。
ラウルはわたしが聞きたいことを何も言ってくれない。
これは人生のリスクを冒すほどの事なの?
そうするだけの価値があるの?

瀟洒なマンションで近隣との付き合いもないクララと、
ウルグアイ人の友人やその孫たちと共に暮らすラウル。
ジューイッシュな言葉や料理、習慣によって、ユダヤ人としてのアイデンティティを
確認するクララと、特別な言葉も習慣もないが、イタリア系ウルグアイ人の
仲間と共に兄弟のように助け合って生きているラウル。

ふたりの思いは、周囲の出来事と絡み合い、人生の真実に近づきながらも
一筋縄ではいかない。


流れ着いた者たちの都市、ブエノスアイレス。
そこには勝者も敗者もない。
あるのは、ただ、生き延びた者たちだ。
これは最後に流れるナレーションである。

とてもとてもハートフルなラスト。
分かっていても、涙がこみあげてきて、泣き笑いしてしまった。

役者2人は素晴らしいの一言。
クララ役のノルマ・アレアンドロ、 ラウル役のフェデリコ・ルッピは
騒ぎすぎず、落ち着きすぎず、老年にさしかかる男女を美しく演じ、
深みのある内容を気品をもって伝えてくれる。

#余談だが、この映画はハリウッド名画をよく知っていないと分からないシーンが
何箇所かある。
(実はわたしは元の映画が分からなかったので、味わい損なったのである)
クララはハリウッド名画好きである。
(ハンフリーボガードが一番好き)
これは、アルゼンチンに根を下ろしていないクララという人間像を
象徴させているわけだが、物語の中で何回か名画シーンさながらの白昼夢を見る。
最後の白昼夢は、ネットで調べていてわかったのだが、
ケイリー・グラントとデボラ・カーの「めぐり逢い」である。
すぐには結ばれない事情の二人が半年後の再会を約束するが、
再会の直前に彼女が交通事故に会ってしまう。
これが白昼夢で現れ、この映画をよく知っている者を「にやり」とさせ、しかも
その後に続くシーンで、静かな涙を流させるシーンになっている。
上手い!

ここでケイリー・グラントの映画を持ってきた、というのも
実はとても上手い「にやり」で、、あぁ、書き出すと止まらないが、
物語の中で、ラウルが「ケイリー・グラント」に似ているとしゃべるシーンが
あるのだ。

他にもレストランでボーイに絡む客をラウルが颯爽とたしなめる白昼夢とか
元ネタがわからないわたしなのだが、
ハリウッド映画ならおまかせ!!という方がいたら、ぜひ教えてほしい。

#シューベルトのピアノトリオ第2番第二楽章。
この美しい旋律は、一度耳にしたら、忘れられない。
おそらく、この映画の監督はキューブリックの「バリー・リンドン」(1975)を
知っていて、わざと使ったのではないか、、そう思った。
「バリー・リンドン」と同様に、この旋律が流れる時、男と女は言葉をかわさず
見つめあい、視線を絡ませ、愛し合う。。

##映画好きの知的刺激もあるが、別に何も知らなくても、感動は変わらない。
(2004.12.06) 
 
 
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ジャスティス 闇の迷宮 Imagining Argentina (2003年 アメリカ・スペイン・イギリス)

微妙だ。
つまり、映画を作った意義は大いに感じる。
繰り返し語り継ぐべき物語であり、アルゼンチンの軍政下に起こったことを
風化させてはいけないと警鐘を鳴らすことにもなるだろう。
だが、映画としてみると、なにか中途半端で居心地が悪い。

アントニオ・バンデラスは劇場主で子供たちに演劇を教えている。
妻エマ・トンプソンはジャーナリスト。
15才の一人娘がいて、とても幸せな家族である。
1976年、軍部が政権をとり、日々、大量の失踪者がでる。
そして、失踪者問題を記事にとりあげた主人公の妻は連行されてしまう。
直後からバンデラスは透視のような夢をみるようになり、失踪者たちの拷問や
レイプ、惨殺を追体験する。。。

これまでに、わたしはスバラグリアつながりで、「ミッドナイト・ミッシング」
「Tango Feroz」といった映画で同じ状況のドラマを見てきた。
ほかにも多くのアルゼンチン映画がこの時代をテーマにしている。
ピンからキリまで色々見たが、それらとこの映画はどこか違う。

それは何か?というと、服の上からかゆいところを掻いているようなのだ。
透視などの超能力を加えたことにあまり意味を感じられないのだ。
それどころか、インパクトを弱めている気がする。

本来、連行された失踪者たちと同じ苦痛を、残された家族も味わうという意味での
透視であり、バンデラスが「悪夢の中で生きている」ってことを表すはずなのだが、
この映画は、悪夢の苦しさを描くより、妙にスリラーめいた、
透視に導かれて謎を解くサスペンス、といった不要な枝葉を繁らせ、大事な幹の部分を
薄めている。

さらに、いつ自分も連れて行かれるか分からない緊張感、恐怖感が、
個人というよりも社会全体を覆っている、そういう息を潜めている圧迫感に乏しく、
対する敵側(政府側)の人物がすべて類型的で、揃ってナチのイメージだ。
本当は、軍事政権を支援したのは共産主義を嫌うアメリカであり、西側諸国なのに、
悪い奴はみんなナチ風であり、映画の雰囲気が平板なのである。

いかにも、よそものが作ったと感じる空気がある。
魔術的リアリズムを全然感じない映像なのだ。

だが、最初に書いたように、エマ・トンプソンとアントニオ・バンデラスが主演で、
全編英語という作品は、山ほどあるアルゼンチン映画の訴えよりも、ずっと
強烈だろうし、多くのアメリカ文化圏の人に見てもらえるだろう。
そういう意味では、大変意義のある映画だと言える。

#バンデラスの歌のうまさには驚き。
(2004.12.08)
 
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タンゴ Tango, no me dejes nunca (1998年スペイン・アルゼンチン)

原題は、you never leave me「タンゴ、けっして俺から離れないでくれ」

更新の記録のほうに書いたとおり、
映像、美術、音楽、ダンスは見事だったが、ストーリーは中途半端。
映画として全体を考えると、評価は低くならざる得ない。

大きなタンゴショーを企画しているというストーリーで、
主人公の演出家マリオは、アルゼンチンの歴史を綴るショーを演出しようとする。

著名なタンゴダンサーとバレエダンサーの絡み合う足裁き、美しい体の線、
タンゴを演奏するしわだらけの初老の面々。
光と影の照明。
すべてが美意識の塊のように、完璧だ。

移民たちが、朝日が昇るなか、南アメリカの大地を踏み進む、、
ヴェルディ、ナブッコの「Va Pensiero」(ゆけ!わが想いよ、金色の翼に乗って)が
流れる、そういえば不思議だ、スペイン語を話すのに、なぜかイタリア移民が
一番多いという(イタリア系35%、スペイン系28%)。

男同士のスタイリッシュなタンゴ、バレエダンサー、フリオ・ボッカとタンゴダンサー
カルロス・リヴァローラのダンスが切れ切れ。

そして失踪者を扱った群舞の振り付け、圧倒されたわ。

マリオと若いダンサー、そのパトロンのマフィアのボスの三角関係。
若くないと感じるマリオが、もう一度情熱を感じたいと美しい娘にすがる。
原題のテーマを、鈍いサブストーリーが活かせず、返すがえすも惜しい。


#マリオを演じるは、アルゼンチン俳優、ミゲル・アンヘル・ソラ。
この人のね、瞬きせずに見つめ続ける視線がね、剛球なの。ずどんっとくるのよ。
なぜか、わたしが見たミゲルはタンゴと縁が深い。
「スール」では全編、ピアソラのタンゴが流れる中、ブエノスアイレスの町を
さまよう男を演じ、
「娼婦と鯨」では、娼館の盲目の主人。バンドネオンを女のように触れて演奏する。
(あうっ、フェロモン出すときの迫力をお見せしたいわ・・・日本公開熱望!)
(2004.12.09)
 
 
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セントラル・ステーション CENTRAL DO BRASIL (1998年ブラジル)

98年のベルリン映画祭で金熊賞を受賞した作品。わたしは、先に
「ビハインド・ザ・サン」や「モーターサイクル・ダイアリーズ」を見てしまったが、
サレス監督の国際的なデビュー作だ。

泉ピンコか、藤山直美がもっともっと年食った感じの、はっきり言って、ババア!と
書くのがぴったりのフェルナンダ・モンテグロ演じるドーラと、9才のジョズエの旅。

父を探す旅なのだが、これはジョズエの父親探しであると同時に、ドーラの父親探しなんである。
そこが非常に上手いんである。

代書屋のドーラは、ブラジルの中央駅で、文字がかけない人のために手紙の
代書を引き受けて日銭を稼いでいる。
だが、彼女は、一日山ほど書いた手紙を、けっして投函なんてしない。
友達と読んで笑って破って捨てて、たまに気に入った奴を引き出しにしまっておくだけ。
手紙、手紙でつながる心、愛を伝えたい気持ち、人を求める心、
そんなもんを信じていない、すれっからしのババアなんである。

ブラジルの都市部の風景、窓から電車に乗り込む乗客、窃盗、かっぱらい、
子供の人身売買、、
バスを乗り継ぎ、トラックをヒッチハイクし、田舎へ田舎へと進む。
乾いた荒涼とした大地、異教のようになったキリスト教、すべて同じ家が並ぶ
新興住宅地、、
初めてみるブラジルの厳しい現在の光景。

ふたりを置いて逃げるトラック運転手のエピソードなど、切なくて泣けてくる。

ラストがこれまた上手い。
手紙を書いたことがなかったドーラが初めて手紙を書く。

忘れられたくない、時折思い出して欲しい・・

誰かとつながっていたいという気持ちを自分に認めてしまうと、
孤独はもっと本物の孤独になってしまう。
手紙や写真なんて、わたしは寂しいと白状してるようなもんじゃないか。
自分を孤独だと認めてしまうことは弱みを見せるようなもんだと、
ドーラは思っていたよね。
でも、最後のドーラの顔は違う。愛と孤独を認めることは強さだったんだ。
そんな顔をしてたね。
これってババアとなったおばさんたちに贈るエールかもしれないね。


#これは吹き替えで見たほうが良い映画かもしれない。
というのは、代書した手紙が、つぎつぎと読まれるのだが、全部は
字幕にならない。。
あぁ、なんて言ってるんだろ、知りたいな、、そこの余韻に浸りたかった。
(2004.12.10)
 

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